岩村田逸品会 > 中山道岩村田宿 
岩村田の町は鎌倉時代、大井郷であった時代に「民家六千軒、交易四達し、賑わい国府まされり」といわれ栄えていた。とくに応永年間(1394〜1428)には足利持氏が関東管領に就き、大井氏が重用されたこともあり繁栄の極みにあった。
江戸時代になり、岩村田は徳川幕府の中山道整備により再興、岩村田宿として再生されることとなる。岩村田宿は北入口を住吉神社、南が相生町の曲がり角が枡形で西に続く。九町半(約1,000m)の往環通りだった。
中山道では高崎宿と岩村田宿には本陣、脇本陣がなかった。大名宿泊が必要な場合は龍雲寺や西念寺、法華堂がその役割を果たしていた。
岩村田宿は佐久甲州街道、日影新道などの分岐点で物資輸送の要衝地だった。商人などを中心とした宿泊が多く大きな旅籠は必要としなかったが、善光寺参りや一般客で賑わった。
寛政六年(1794)の資料によると、寛政年間には宿の中心に布袋屋、駿河屋、亀屋、なべ屋、桔梗屋、石橋屋などの旅籠屋11軒、その他旅芸人や巡礼などが宿泊する木賃宿が軒を並べていた。 宿場と宿場の間の街道には、伝馬役などを担う伝馬屋敷なども建ち並んでいた。
宿駅制度が廃止された明治以後は、商業都市として、また郡役所や警察署が置かれて政治都市的な色合いを持って発展した。
現在、宿駅の姿は消え、何とか宿場らしさを探すとすれば商店街の東側に平行している道、荒宿周辺ではなかろうか。
中世の名残は信玄ゆかりの龍雲寺などに残されている。            
清水の舞台を彷彿させる懸崖づくり
日本五大稲荷のひとつ
佐久市岩村田字鼻顔、旧中山道岩村田宿からも至近の距離にある鼻顔稲荷社(神社)は、湯川から岩村田市街を臨む景勝の地に建てられている。
武田信玄ゆかりの古寺。
江戸時代は、御小休所、本陣の役割も果していた。
永禄年間、武田信玄により再興されている。信玄は北高禅師を中興開山とし、信濃国の曹洞宗僧録に任じ、寺の再興に尽力した。
岩村田藩主内藤正国や
戦国武将仙石秀久ゆかりの寺
西念寺は戦国の武将仙石秀久と縁の深い寺で、一族の墓所碑もある。五代岩村田藩主内藤正国墓碑五輪塔、江戸時代の国学者で俳人の吉澤好謙の歌碑などがある。
中山道以前の本街道荒宿通りに位置する
松並木とフジの名所
戦乱により荒廃したが、延享4年(1747)再建して大悲山に復した。領主の内藤氏は円満寺を庇護し、観音堂を再建、一族の鬼門鎮護の祈願寺となった。
鎌倉から室町時代にかけて
佐久群東部に勢力を誇った大井氏の居城跡
岩村田市街の東側、湯川の断崖上に北から石並城・王城・黒岩城と並ぶ一連の城館を総称して「大井城」と呼び、大井宗家累代の居城であったとされる。
岩村田の神社
●住吉神社
●若宮神社
●西宮神社
●近津神社
その他の名所
●佐久甲州街道分去れ
●相生の松
●獅子岩・お舟ヶ淵
●北西ノ久保石造塔婆群
●ひかりごけ自生地
●梅の井戸
●上の城址
●岩村田の七名石